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私は現在子育て中のヒロシマ一市民です。
生まれて今までの大半をヒロシマ県で過ごしました。
小学生の頃は夏休みになると、
「原爆のことについて周りの人に体験を聞いてみましょう」と宿題が出ました。
けれども実際の原爆について語ってくれる人はいませんでした。
家族はヒロシマ市からは離れていたので、空が光るのを見たことだけ話してくれました。
いつも8月6日は日差しが強く、原爆慰霊式典をテレビで見ながら
その猛暑の熱気を小学生ながらに感じたことを思い出します。
ヒロシマに住みながら原爆に触れることなく約30年余りを過ごしてきました。
そして子供の誕生と共に、原爆や平和について考えるようになりました。
原爆資料館は初めて訪れたのも子供と一緒でした。
その後「ヒロシマ」という地を強く感じるようになったのは、
いろんな地を子供と旅する中で出会った外国人の方々との会話がきっかけでした。
私が「ヒロシマから来ました」と伝えますと、
相手の方は皆「Oh、ヒロシマ!」と声が高くなるのです。
いかにヒロシマが世界中の方々から強く認識されているか、しみじみと感じました。
なぜ原爆の悲惨さが多く語られないのでしょうか?
私の母は原爆投下の時、いまでいう小学生の上級生だったそうです。
ヒロシマ市内から離れた母の小学校にも負傷者が運ばれ、
小学生が看護婦さんのお手伝いをしたそうです。
けれども母はそのことをまったく覚えておらず、近年になってクラスメイトから聞いたとか。
その体験を記憶に残したくない、と心の奥で思ったからでしょうか。
原爆の体験を話すことは、その体験を追体験することとなります。
原爆による傷が癒えていないなら、原爆について話すことは本当に辛いことだと思います。
怒りとか憎しみよりも、悲しみが大きかったからこそ語ることができなかった。
怒りとか憎しみなら、声を大にしてすぐ叫ぶことができたでしょう。
原爆について語り伝えて下さる語り部の方々に、心から感謝せずにはいられません。
原爆の後遺症には、他にも目に見えない部分があると思います。
<原爆に遭った者・遭わなかった者>がお互いに心を開けなくなったのかもしれません。
………被爆者と知られたくなくて、原爆手帳を申請することができなかった、
という被爆者の方の手記を読んだことがあります。
戦後のまだ封建的な時代の中で、
被爆者の方々に対する結婚差別・その他の差別もあったのでしょう。
被爆者の方々は口を閉ざすしかなく、
被爆を免れた方々も被爆者の方々の心情を開くことができなかったのではないかと思います。
ヒロシマは派閥性の強い土地だとよく言われます。
これも原爆の後遺症であると私は感じたりするのです。
ヒロシマの人は、思いっきり自分を表現することが苦手な感じがします。
周りの人に自分を合わせようとして、周りを意識しすぎる傾向がある感じがします。
本当に心を開いて自分のことを語り、相手の事も知りたいと願う……。
個として自由になり、自分の力を解放し表現する……。
<ヒロシマ>が原爆の傷を癒すには、このことが大切だと私は思うのです。
ヒロシマの原爆の悲しみは、
憎しみや怒りを超えているのではないかと思います。
その悲しみを、いまだ心の奥に閉まっている方々もいらっしゃると思います。
また被爆から立ち直ったヒロシマの姿は、
どんな境遇でも自分に負けなかった戦後のヒロシマの人々の強さを感じます。
憎しみ、ゆわば過去にこだわるよりも、
今を生き抜いてゆくことに一生懸命だった、
ひたすら前を向いて進んできたのだと思います。
それがゆえに、ヒロシマは戦争の憎しみを伝える土地ではなく、
戦争の悲しみを語り伝え、世界の平和を願う平和都市となったのだと思います。
きっと多くの方々の援助・支えもあったのでしょう。
ヒロシマを支えてくださった方々に心よりお礼申し上げます。
そしていまも、世界中の方々がヒロシマを訪れ続けて下さっています。
そしてヒロシマの原爆を感じ、世界平和への祈りを捧げて下さっています。
平和公園の前を通る時、いつも外国人の方々を沢山見かけます。
私は遠路遥遥ヒロシマへ来て下さった方々に、その都度お礼を申し上げたくなるのです。
多くのアメリカからの方々もヒロシマを訪れて下さいます。
世界中から見れば不思議かもしれませんが、
アメリカへの憎しみを話す人に私は出会ったことがないのです。
むしろアメリカの方々がヒロシマを訪れて下さることが、私はとても嬉しいのです。
日本人とアメリカ人が「世界の平和都市ヒロシマ」で手を繋ぎ、
共に戦争とは何なのかを見つめ、共に世界平和の為に動き始めたいと思います。
その姿こそ、ヒロシマの地が求めていることではないでしょうか?
その姿こそ、原爆を体験した方々の願いではないでしょうか?
世界の中には、まだ憎しみが沢山あります。
私は人々の中に憎しみの心を感じても、共に憎しみを感じたいとは思いません。
ただ憎しみを生じさせた背景を見つめ、その人々の怒りや悲しみを抱きしめたいと思います。
そしてその怒りや悲しみの中に、一人一人の幸せに生きたい平和への願いを感じるのです。
それは、現在戦争に関わらざるえない人々も同様なのでしょう。
自分の幸せを、他人を不幸にしてまで勝ち得たいと思った時戦争になるのではないでしょうか?
戦争は、自分の弱さや他人への恐れ・不信感を曝け出しているように思います。
心の底の共通言語で話せば、「わたしは幸せに平和に暮らしたい」と呟きながら、
手に武器を持たざるえない方々が大勢いるように思います。
いまこそ地球規模で、平和に幸せになる方法を見直す時期に来ていると思います。
世界中で戦争をしたい者が自分一人になっても、戦争をしたい人はいるのでしょうか?
戦争に関わる誰もが心に傷をおうことは、いままでのいろいろな戦争が物語っています。
戦争による勝利者には誰もなれないのです。
戦争を手放せなくなる・相手の苦しみを感じなくなることこそ、
心を見失った人間の深い深い傷なのだと思います。
そんな深い傷を負った方々にも、笑みと優しさを届けたいと思います。
どんな命も等しく愛おしいと心から思います。
愛おしく抱きしめられなかった命だから、戦争を始めたのでしょうか?
誰が戦争を止めるのでしょう。
それは、世界中の一人一人の意志なのではないでしょうか?
いまこそ、無関心を装ったり見ないふりをするのは止めましょう。
一人一人が私がしてほしいことを、
逆に人に与える時期に来ているのではないでしょうか?
相手の幸せを願うことから私は始めたいと思います。
それが私が感じる、ヒロシマ市民としての平和への祈りなのです。
だから私は思っています。
ヒロシマ市民であるがゆえに、どんな憎しみにも同調せず、
怒りや悲しみを抱きしめ、相手を理解し続けたいと。
そして怒りや悲しみの奥底の、平和や幸せを願う心を分かち合ってゆきたいと。
どんな命も愛おしいと心から思います。
………分かち合いと愛・理解する心………
そんな心をヒロシマから世界へ送り続けたいと思っています。
どんな時も一人一人に話しかけるように、伝え続けたいと思います。
世界の命ある全ての方々へお願いがあります。
戦争を放棄した憲法9条は、世界の大切な宝だと思います。
その精神に感動したあるスペインの市長が、
市に「ヒロシマ・ナガサキ広場」をつくり、その中に「憲法9条の碑」を建てています。
なぜいままでヒロシマにはなかったのでしょうか?
憲法9条を世界遺産としてしまう前に、
ヒロシマの原爆ドームの前に、
世界市民の手で、
<憲法9条の碑>を建てたいと、
いま世界に、ヒロシマに働きかけて下さいませんか?
世界市民からの要望がヒロシマに集まれば、
国家を超えて実現できるのではないかと思います。
もう一つお願いがあります。
いまヒロシマには年間約一千万羽の折鶴が寄せられます。
本当に凄いことだと思います。
いま、ヒロシマの平和公園から程近い元日本銀行建物内にて、
その一年間分の折鶴がすべて展示されています。
是非その折鶴達に出会って下さい・感じてください。
閉館している日でも、裏口から断って入ることは可能だそうです。
その展示会場で、その折鶴の活用案についてアンケートを行っています。
現市長になる前は、その折鶴達を処分していたのです。
是非ヒロシマを訪れてアンケートを書いて下さいませんか?
この折鶴も、世界の大切な宝だと私は思うのです。
ヒロシマ市民が力を発揮するのはこれからだと思います。
でもヒロシマ市民だけでは力は足りません。
是非ヒロシマに、世界市民の方々の力を貸してください。
どうぞよろしくお願いいたします。
世界のすべての命を愛おしく思いつつ………。
追伸
この文章を書き終えた日に、
現ヒロシマ市長 秋葉忠利著『報酬ではなく和解を/いま、ヒロシマから世界に』が届きました。
その中から少し抜粋してみました。
被爆者の皆さんから一番よく聞くのは、
「こんな思いは、もう他の誰にもさせたくない」という言葉です。
「誰もの」の中には、たとえば、原爆投下を命令したトルーマン大統領も入ります。
「誰もの」に、すべての人類が含まれるという確信に成長したのだと思います。
「憎しみと暴力、報酬の連鎖」を自ら断ち、「和解」への道を切り拓いたのです。
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ヒロシマ市民 臼井陽子


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